■2001年/世界文化社発行
長年営業してきたホテルが閉鎖されるとき、その経営者や従業員、そして常連客は、ある種の無念さや寂しさを抱くに違いないと思うのだが、悲しむ人はほかにもいる。そのホテルで結婚披露宴を挙げた夫婦である。愛を誓い合った思い出の場所がこの世から消えるとき、その夫婦は自分たちの心のよりどころの一部が失われたように感じるのではないか。
男と女がホテルで深く愛し合い、別れ、その25年後に同じホテルの同じ部屋で再会する物語がある。辻仁成の『サヨナライツカ』である。
第1部の時代背景は1975年。主人公の東垣内豊は、日本の航空会社のバンコク事務所に勤務するサラリーマンである。容姿は申し分なく、性格の良さもあって、周囲から「好青年」と呼ばれる男であった。
その彼には婚約者がいた。勤める会社の創業者の未亡人から紹介された女性で、いかにも良妻賢母となるような彼女と間もなく結婚することになっていた。
いわば出世コースを順風満帆に進む青年だったが、彼の前に沓子(とうこ)という正体不明で魅惑的な女性が現れる。友人たちが集まった婚約報告会で、彼らは初対面を果たすのだが、その出会いが二人の人生に大きな波紋を投げかけていくのである。
苦悩の愛を長い間記憶する歴史ある荘厳なスイート。
ある日、沓子の突然の訪問を受けた豊は、狼狽しながらも、彼女と関係を持つ。そして翌日、彼は彼女から夕食の招待を受け、指定の「オリエンタルホテル」へと出向いた。
ホテルは単なる待ち合わせの場所と思い込んでいたが、それは間違いだった。彼女はホテルに住んでいたのだ。しかも、滞在している部屋は「まるでタイの国王のために用意されたような荘厳な装飾」のサマセット・モーム・スイートだった。
沓子のような若い女がなぜ高級ホテルのスイートに長期間滞在できるのか、豊は疑問に思うが、「私ね、大金持ちなの。お終い」と冗談めかした答えで逃げられてしまう(沓子の秘密はここでは触れないでおこう)。
その彼女の正体を怪しみながら、そして婚約者の存在に心を痛めながら、豊は、日本人社会とは離れた別世界、「バンコクでもない、オリエンタルホテルというもう一つの世界」で、沓子の虜(とりこ)になっていく。
彼の心の変化は、例えば、寝室に対する印象にも表れる。最初、彼は金箔をちりばめた箱形ベッドが置かれた寝室を異様と思ったが、ここで沓子と愛し合っていくうちに、架空の王宮にでもいるような気持ちになり、このベッドを「快楽の船」と思うようになっていくのである。
さて、二人は数ヶ月の間、存分に愛し合ったが、彼らは心の中に時限爆弾を抱えていた。豊の結婚が間近に控えていたからである。豊は、本当に婚約者との結婚を望んでいるのか、次第にわからなくなるが、出世コースを放棄する勇気はなかった。沓子は沓子で、豊への愛を日々深めていくが、婚約者の存在に苦悩し、バンコクを去ることを決意する。
しかし、運命の神は手加減をしない。第2部において、豊と沓子は25年の歳月を経て再会するのである。
その場面をここで詳しく書いて読者の興趣をそぐことは避けたいが、年齢を重ねた二人の、昔とほとんど変わっていないサマセット・モーム・スイートでの再会は、読む者の心を締めつけずにはおかないだろう。
豊は、家具や調度品が当時のままというスイートの光景を見て大いに戸惑うが、そこに二人が深く愛し合った当時の匂いや質感を感じ、めまいに襲われて立ち尽くすのである。
思い出のホテルがいつまでも同じ姿を留めてほしいと願うのは人情だが、いまの激変する日本のホテルでは感傷的にすぎるだろう。時を超えた愛の物語は、歴史を大切にする海外のホテルだからこそ描けるものなのかもしれない。